養 老 健 康 百 話
第十一話 何歳からでも脳は若返る
養老健康百話-11

何歳からでも脳は若返る

 今まで、人間の脳の神経細胞は、二十歳を過ぎると一日で十万個前後も死滅し、脳の機能は衰える一方だと考えられていた。特に、痴呆症になったら、その進行を若干遅らせることは出来ても、回復は無理だとされていた。ところが、この定説が覆される驚異的な事実が東北大学の川島隆太教授らの実験研究で発見された。

 音読と単純計算を毎日継続して行う訓練により、従来医学的には不可能とされていた痴呆老人の症状が改善されたのである。自分では排尿できなかった人が一週間で尿意を訴えるようになり、二三カ月経つとオムツを着けていた人の三割はオムツがとれるようになった。脳の機能を計る数値も顕著に向上し、家族が驚くほど表情が明るくなった。

 驚いたことに、痴呆症状を持つ九十九歳のおばあさんが音読と計算のトレーニングを受け、痴呆症状が軽快したばかりか、生まれて始めての英語の学習に挑戦し、今では施設の他の痴呆症患者に英語を教えるまでになったとのことである。脳を鍛えるのは若い頃からにこしたことはないが、百歳からでも遅くはないのである。確かに、成人の脳神経細胞の数は加齢と共に減るが、残った神経細胞同志が突起を伸ばし合い、繋がりを強めれば、脳機能は回復し、向上さえ期待できるのだ。物忘れがひどくなったくらいで悲観することはない。歳だから無理だと諦めるにはまだ早い。

音読と計算練習が脳力をアップする

 ところで、何故、単純計算と音読が脳の若返りに一番よいのだろうか。もっと脳を刺激するテレビ・ゲームなどの方が効果的ではないかという疑問が湧く。川島教授も退屈な計算をしているときより、刺激的で面白いゲームに熱中しているときの方が脳の活性度が高いに違いないと考え、この仮説を実験で証明しようとした。

 被験者の大学生たちに、面白い作業としてのテレビ・ゲーム、つまらない作業としての一桁の連続足し算をそれぞれ三十分間やらせ、脳活動を測定した。測定結果は意外にも仮説とは全く逆の結果を示した。計算作業の方がテレビ・ゲームより脳の前頭前野の活性度を高めたのである。その後、数々の実験研究の結果、単純な計算作業の他にも、声を出して文を読む音読、文字の手書きなどの単純で基礎的な作業が、高尚で複雑な精神活動よりもはるかに脳の前頭前野を刺激し、活性化させることが実証された。

 前頭前野は、コミュニケーション、感情の統制、意欲の発揮、創作活動など、人間にとって特に重要な能力を全て司っている。この脳全体の司令塔とも言える前頭前野が、単純計算、音読などの訓練で活性化するので、この部位が司っている集中力、記憶力、生活意欲などの様々な「脳力」が向上するのではないかと考えられている。

倦まず弛まず怠らず毎日五分の音読を

 音読と計算は両方やるのが一番良いが、どちらか片方だけでも効果がある。大切なのは毎日継続して実行することである。一日五分でも、その効果は蓄積してゆく。3ヶ月、半年もやればその効果ははっきりと現れる。音読は小説、新聞の社説、コラム、論語、方丈記など好きなものを朗朗となるべく速く読むのがよい。計算は単純な足し算引き算をなるべく速く暗算でやるのが有効である。音読も計算もドリル集が市販されているので、これを利用すると便利である。

 このトレーニングを最も効果的にする時間は朝食後である。朝は脳が最も活発に働く時間帯だし、朝食は脳の活動エネルギーとして必要な葡萄糖を供給するので、脳の鍛錬には朝食後が一番よい。

 脳も筋肉も使わないと衰える。のんびりと普通の生活をしているだけだと、脳の使い方がどうしても不充分になるので、何らかの意識的な努力が必要になる。身体の老化防止のためには何らかの運動を意識的に行わねばならぬが、脳の老化防止にも音読や計算などの意識的なトレーニングが不可欠である。

挑戦的な生活習慣が老化を防ぐ

 脳に一番悪いのは、刺激のない、判で押したような画一的で退屈な日々のくり返しである。退職後、さしたる趣味もなく、日がな一日寝そべってテレビを見て、ご近所との付き合いもせず、家族ともあまり話しをしないようなのんべんだらりとした生活を送っていると、頭も体も急速に老化し、衰える。安易で怠惰な生活は禁物である。

 音読や暗算のトレーニングの他にも老化を防止する良い方法がある。一般に目的を持って指先を使う行為は前頭葉を活性化させる。手紙や日記など文章の手書き、習字、料理、手芸、楽器の演奏などは脳の老化防止に有効なことが実証されている。

 文章を書く場合も、手書きで指を使うことが大切である。ワープロや携帯メールを使うと前頭葉はほとんど働かない。囲碁、将棋、麻雀などの勝負事も前頭葉を刺激しそうだが、まだ研究結果は出ていない。ただ、仲間と会い、談笑しながら手指を使うので、脳の健康には良さそうである。従って、直接相手と対峙しないパソコンの囲碁ゲームなどは脳の活性化にはあまり役立ちさうもない。

 対話は脳を大いに活性化する。孤独は老化を促進する。地域のボランティア活動、公共施設で行われている各種の教養講座、カルチャー教室などへも積極的に参加し、友達を作り、会話をする機会を増やすことは老化防止につながる。

 また、教授らの調査によると、前頭前野の機能が衰えていない高齢者は、大抵、写経、家計簿の手計算手書き、散歩などのしっかりした日常生活習慣を持っている。

 何事も易きにつかず、できるだけ大変な方を選ぶ、楽でない方を選ぶという挑戦的な生活習慣が脳の健康には大切である。

老人よ、旅に出よ、恋をせよ

 旅行も脳を若返らせる。グループで2週間の沖縄旅行をした東北の高齢者達の脳の活動を調べたところ、旅行後の方が脳の血流も記憶力も明らかにアップしていた。仲間と談笑し、知らない新しい環境の中で動き回ることが脳を刺激したと考えられる。億劫がらず、奥さんとでも、親しい仲間とでも、旅に挑戦するのが若返りの秘訣らしい。

 老人ホームなどでは、異性の友達ができると、途端に服装が若返り、身だしなみがよくなり、動作も表情も明るくなるという。女性はお洒落になり、お化粧したりカラフルな衣服を身につけるようになる。若返りには恋が一番である。恋まで行かなくても、お互い気の合った異性の友達と会って話をするだけでも、脳が刺激され、若返りのホルモンも分泌を増やすのではなかろうか。

 参考文献 新潮45 七月号 川島隆太「40歳を過ぎてからの大人の脳の鍛え方」
 文芸春秋七月号 田秀樹連続対談「計算音読で呆けない脳を」
 

付記 試して見た「音読」と「暗算」のドリル

 無責任なことは書けないので、実際に川島教授著「脳を鍛える大人のドリル」を購入、試して見た。退屈で飽きが来そうな「暗算」も、やってみると案外面白い。「音読」は、教材に選ばれた古今東西の名文のさわりの中身が濃く、音読すると精神への滋養が胸に沁み込むようである。まだ、五日間の短い体験なので効果のほどは不明だが、それほど苦にならず、むしろ楽しみながら継続できそうだ。最近、老化現象か、とみに囲碁の棋力が落ちているので、この回復とさらなる一段の進歩を楽しみに脳の鍛錬を継続するつもりである。